生まれてから5年、能天気に生きていた。
父が商社マンだったということ以外は
比較的平凡な家庭で育った。
当時の家族・友人関係は良好で
大きな傷や病いを患うことなく、
兄やいじわるな幼馴染に泣かされることも多かったらしいけど
ただ毎日明るく、楽しく生きていた。
ある雨の日、祖母が泣きながら手を振ってお別れをし、
気づけばファーストフライトに乗り、
日本を発って、ドイツに向かったのだ。
◆
ドイツに住むようになって、
インターナショナルスクールに通い、
英語・ドイツ語を習いだした。
学校の日常会話が英語で行われ、
日常生活ではドイツ語を話した。
最初の方こそ全く理解ができない外国語だったが、
ESL(English as a Second Language:英語ができない子が通うクラス)に通い、
1年上に日本語と英語をしゃべる子の通訳も受け、
なんとなく適応でき始めた。
その時、日本に対してホームシックになることなどなかった。
恋しいのは納豆ぐらい。
*当時のドイツでは日本人向けのスーパーで買えたけれど、
高級品で、滅多に口にできなかった。
その時は白いほっくほくのご飯に納豆を乗せるのが大好きだったし、
お寿司では納豆巻きを頼んでいた。
…と話が脱線したけれど、大して日本に帰りたいとは思わなかった。
活発で社交的、その頃は目立ちたがり屋だった私は、
学校内の行事によく参加し、
校内ミュージカルへの立候補(落ちたけどw)、
ローカルなオペラ団とコラボするコーラスの一員として参加した。
習い事もピアノ(早々に挫折)とバレエ(1年で辞退)もしたっけ。
そういう積極性がうまいこと役に立ち、
すんなり英語もドイツ語も、
ほぼネイティブレベルまで話せるようになっていた。
その一方で、気づけば家庭で
日本語で話しかけられても英語かドイツ語で返すぐらい、
母国語が完全に逆転していたのだ。
<つづく>
my story 2)にほんごが、ワカラナイ
https://speakfromyourheart.themedia.jp/posts/746443
その頃よく聞いていた曲(BGM代わりにどうぞ):
Nena - 99 Luftballons
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